配慮というモノへの配慮

ここ数年というか、特にここ最近なんだけども、「配慮」という言葉が非常に苦手になってきました。理由は簡単、求められている「配慮」っつー意味とか定義がわかんなくなってきてるから。たんじゅん。

 

とある立場から「配慮」という表現を使うと「なんだよオメー、上から目線でモノ言いやがって何が配慮だよ」となり、また別の立場から「配慮」という表現を使うと「なんだよオメー、そこは言うこと聞くのが配慮だろ」と、最近の「配慮」は「遠慮」を強いられるようなことがたくさんあるような気がするようなそうでもないような。

 

相手の気持ちを考えることが配慮。相手の気持ちを考えて控えめにするのが遠慮。配慮と遠慮は違うというけれども、ニホンゴ、ムズカシイネ。というか言語は文化・風習的な背景の影響も大きい。

 

ご迷惑をおかけしてすいません。

ご配慮いただきありがとう。

 

そう、配慮というものは、たぶん、受け手側のご機嫌と何を求めてるかによってえらい勢いでブレるんじゃなかろうかと思う。ブレるというかなんというか。

 

求めるもの100%=配慮

それ以下%=ひとつも配慮されてない

 

そう、この配慮配慮押し問答には妥協してもらえる着地点がないのであります。そして、片方は未来永劫叩かれっぱなしなのであります。良い悪いは別として。

 

例えば配慮する側、『配慮する側』っつー定義もおかしなもんだけども、『ああそうだそうだ、こういうこと頭からスッポリ抜けてたからちょっと考えてあげないと』なんて雰囲気を醸し出しちゃったら、『配慮される側』はたぶん『あげないと、ってお偉い立場から随分とアレですのねえ?』とそこでへんてこりんなやる気スイッチが入ってしまい、本末転倒な叩かれ方をするのが最近の世知辛い世の中。

 

そして配慮される側の要求が通るまで配慮する側(ここまでくると配慮もへったくれもないただの敵)をヘイトスピーチ並みに罵詈雑言。そしてそれは許されちゃう。だってそういうのも求められてる配慮だもの。

 

何しても言われっぱなし。じゃあと反論するとひどい人扱い。だったら関わるのを辞めようと縮こまることを推奨するような流れ。それも配慮なんだろうか。

 

うーん、こういうのよくみるよね。そんでよくわかんないよね。配慮を願う人も、配慮する人も、目的達成のために多分それぞれ結構酷いこと言ってると思わんでもない。もちろん自分を含めて。

 

反省。ごめんなさい。何かに。誰かに。

 

 

心から気持ちに正直に相手のことを考えるのが配慮

腹の探り合いも配慮

良い人に思われたい末の行動も配慮

良かれと思った末の行動も配慮

腹を探り合って自分にマイナスが降りかからないようにする行動も遠慮寄りの配慮

かわいそうという同情寄りの感情も配慮

どうなったらいいのか考えるのは考慮

考慮から結論づけた配慮は時々遠慮

かわいそうという同情からの行動は遠慮

腹を探り合って自分にマイナスが降りかからないようにする行動も配慮を装った遠慮

良かれと思った末の行動も遠慮

良い人思われたい末の行動も、悪い人に思われたくない末の行動は遠慮

腹の探り合いに疲れたら遠慮

心から気持ちに正直に相手のことを考えて我慢するのも遠慮

 

 

もうここまでくると、配慮の最終形態が遠慮

 

日本一億総配慮ニスト。良いか悪いかサッパリわからん。そして自分が自分じゃなくなっていく感じ。あっちにもこっちにも気を遣う日本一億総我慢大会。

 

じゃあ配慮の対義語ってなんだろ。配慮に欠けて、相手の気持ちを考えないで自分で行動して、細かいところまで気を遣えないで、相手を選ばずに信念をもって行動して。

 

あ、わかった。それ、無差別。うーん、なんかイメージ悪い。