日本語を学ぶ?日本語で学ぶ?

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笄小学校。こうがい小学校。読むのも書くのも難しいですよね、笄。そんな笄小学校の日本語学級を見学してきました。港区にある唯一の日本語学級、45名の児童が通っています(2016年1月)。英語圏から非英語圏の出身まで、はたまた帰国子女まで。国際学級のある東町小学校と同じくらい、日本語学級のある笄小学校は大人気。

 

前にも少し書きました。国際学級と同じくらい、ひょっとしたらそれ以上に日本語学級って重要なんじゃないかと。見学してみてどうでしょう、やっぱりものすごい必要だと思いましたね。未来の日本のためにも。

 

日本語を学ぶ?日本語で学ぶ?

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日本語を学ぶ』と『日本語で学ぶ』という違い。これがどのくらい意味が違うというのをわかってくれる人がいるかが鍵かと。

 

1. 日本語を学ぶ

生き抜くためのサバイバルであって学校生活や社会生活に溶け込むための指導。要は、なんとなくのコミュニケーションで環境に順応してもらえるための日本語を覚えることと、教科書を読んだり授業についていけるようになること。多分。

 

2. 日本語で学ぶ

外国語で学年相当の学力についていくための指導。定義するの難しいけどニュアンスとしてこんな感じなのかなあ。多分。

 

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日本語学級、誰のため?

日本語学級が必要と思われる児童は多分3パターン。これ、日本人の子にも当てはまる場合あるかも。

 

1. 日本語に触れたことがない

2. 家庭で使われる言語とお勉強のための言語が異なる

3. 日本の学校も進学先の選択肢

 

1の場合は『はい』『いいえ』から始まり、ひらがなカタカナからサバイバルフレーズなんか必要ですよね、『先生、トイレ』とか必須…!

 

2の場合は例えば両親どちらかが日本人とかで、おうちで日本語会話できても読み書きが不得意とか、両親日本人でも海外で現地の学校行ってた帰国子女の場合でもあり得る。

 

3の場合は語学力とともに学力も付けないと折角のお勉強についていけないかもだし入試とかどうしよう、そんな感じ。

 

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メインの言語をまずひとつに定めることで、理解する力と考える力が初めて付くようです。3ヶ国語も4ヶ国語も堪能な人ってそうらしいんですよ。12才くらいまでに基礎があるとうんぬんかんぬん、みたいな。でも外国語に触れるのが早ければ早いほど〜みたいな話もあるし、こういう類は専門家でも喧々諤々だとは思いますし、家庭の事情もあるでしょうし、一概にコレ!とはいえないもんなんでしょうね。

 

ヘァン・ドォウァ事変

こういう話題の時に必ず思い出すことがあります。アメリカで育ってる日本人の小学校低学年の子がですね、車から降りた時にドアがちゃんと閉まってなかったのでそれをお母さんに教えようと『マミー、半door!』と。半ドアの『半』もわかりやすいアメリカ英語的発音で『へぁん』って感じで。

 

これを聞いて考えさせれらたんですね。ああ、お風呂屋さんでよくマミーって飲み物見かけたなぁと。いや、そんなことじゃなくて。ノルタルジーに浸る場合じゃなくて。

 

考えたのは『この子は半ドアという単語を何語だと理解してるんだろうか』と。『ヘァン・ドォウァ』ははたして日本語なのか、英語なのか。もし耳から音だけで学んでいるとして、これを英語で話をするお友達に伝えたところで伝わらないもどかしさを感じるのか、はたまた日本語で『半ドア』と書くことを知った時に受けるであろう衝撃とか、妄想は止まらないわけですね。

 

そんな語学教育面で頭の隅っこにずっと残る『ヘァン・ドォウァ事変』、私は専門家でもなんでもないですけど、見たり聞いたり経験したりする中て、小さすぎて何語か判断ができないうちのバイリンガル教育はいいのか悪いのかがサッパリわかりません。

 

コミュニケーションと学力

少し大きくなったとしても、留学中に会った日本人でも日常会話はまったく問題なくコミュニケーション取れても、学校の勉強はズタボロというのも見ています。設問が読めないから問題の意図が理解できなくテストの点が悪い、または勘違いして正解を出せない、そんなことより新しいことを学ぶための説明が理解できない。外国人とのコミュニケーションは100点満点でも試験は50点取れないとか。

 

大抵言います、『日本語だったら正解できるのに』か『日本語でもわかんないから英語でもわかんないよ』のどちらか。日常会話はできても授業についていけないパターン。

 

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ま、そんなことはさておいて。外国語を学ぶということと、外国語で学ぶということは違うんですよということをどうにか上手に説明できないかと試行錯誤してはの繰り返し。助けて詳しい人。

 

通級

笄小学校の日本語学級に話は戻りますけど、先述したように大人気。でも色々と学校側も家庭側でも壁にぶつかっていると話も聞きました。例えば、通いたいけど通えないパターン

 

小学校の日本語学級は笄小学校ただひとつ。『通級』といいまして、ここで学ぶ児童は笄小学校の児童とは限りません。

 

南山小だったり東町小だったり御田小だったり、はたまたもっと遠い地域であったり、メインの小学校に通いつつ、学校と相談で週に何回か何時間か笄の日本語学級に通ってくる。授業が終わったらメインの小学校に戻る。保護者による送迎が必須です。これが無理なら通えない。保護者の負担も大きければ、児童もあっちこっち行くし精神的にもストレスあるのかなあ。どうだろう。

 

日本語指導ができる人?

その他、日本語指導の教員の質と確保。日本の小学校教員免許を持ってることが必須でありますけど、外国人に日本語指導の経験がない先生が配置される可能性もあると。

 

もちろん今は色々配慮されていて、経験があって語学のできる先生が揃ってはいるようですけど、この体勢が未来永劫続くとは限らない。教育の場って区だけじゃなくて東京都の教育委員会も関係してくるし、区が例え独自に採用するとしてもなかなか探すの大変ですよ。

 

読み書きを教えたり、会話を練習するカンバセーションパートナーだったり、日本ではこの手の日本語学習に関しては政策ではなくてボランティア任せのところが大きい印象です。もし学校で一生懸命日本語を勉強してる外国人の姿をみたら、日本語も勉強の中身の手助けする子もいるだろうし、自分も外国語の勉強をもっと頑張ってみようかなと感じる子もいるだろうし、日本語学級が増えれば、港区の国際化ということも進むんではないかと思っています。

 

2通りの国際化

昨年9月の一般質問でも言いました、国際化って一方的に歩み寄るものでもないと。日本人が外国寄りになるのと同じくらい、向こうの人にも日本寄りになってもらえればバランス取れるんじゃないかと。国際学級があることで国際理解教育が育まれるのであれば、日本語学級があることでも国際理解教育が育まれるということです。先生も言ってた。

 

日本語学級って日本式の日本カラーに染めるための手段じゃなくて、国際化教育に手厚いな、国際化頑張ってるなって思われるプロセスのひとつかも。なんだろ、港区の目標としている『成熟した国際都市』になるための策をあの手この手で講じようとする姿勢に、別方向から後押しするみたいな。今大慌てで外国人を呼び込んでも困らないような表記とかの多言語化をするより、先に今大慌てで現状の体勢の修正もいいんじゃなかろうかと。

 

は、しまった。オチがない。